概要
井上陽水
概要
井上陽水(いのうえ ようすい、1948年8月30日生まれ)は、日本のシンガーソングライターです。本名は表記が同じで読みは「いのうえ あきみ」、旧芸名はアンドレ・カンドレです。福岡県嘉穂郡幸袋町(現・飯塚市)に生まれ、田川郡糸田町で育ちました。1969年にデビューし、1970年代以降、吉田拓郎と共にフォーク及びニュー・ミュージック界を牽引した日本を代表するシンガーソングライターの一人です。独特の声、風変わりな歌詞、常にかけているサングラスでも知られます。2人目の妻は歌手の石川セリ、長女は作詞家・歌手の依布サラサです。ソロ・スタジオ・アルバムを22作発表し、奥田民生とのアルバムも2作制作しました。2009年5月までにオリコンのアルバムチャートで累計1,090万枚超を売り上げ、1位獲得アルバムは7作にのぼります。
経歴
生い立ち
父・井上若水は元軍医の歯科医で、一人息子に家業を継がせることを望んでいました。1953年に糸田町へ転居し、糸田小学校、糸田中学校、西田川高校へ進みます。姉の影響でプラターズやエルヴィス・プレスリーを聴き、1963年に「プリーズ・プリーズ・ミー」に衝撃を受けてビートルズに熱中しました。1966年頃に初めて曲を作ったとされ、この曲は未録音ですがライブで時折歌われています。九州歯科大学の受験に失敗を重ね、進学を諦めて上京し、歌手活動に専念しました。ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」を聴いたことが作曲を始めるきっかけでした。
アンドレ・カンドレ時代(1969〜1970年)
1969年、RKB毎日放送のラジオ番組『スマッシュ!!11』のために自宅で「カンドレ・マンドレ」を録音しました。多くのリクエストが寄せられ、これがデビューのきっかけとなります。上京して六文銭の演奏、小室等の編曲で録音し、同年9月1日にCBSソニーからアンドレ・カンドレ名義でデビューしました。しかしほとんど注目されず、続く「ビューティフル・ワンダフル・バーズ」、松山猛と加藤和彦が楽曲提供した「花にさえ、鳥にさえ」(1970年)も不振で、シングル3枚で活動を終えました。この時期に知り合った小室等、安田裕美、星勝、RCサクセションの忌野清志郎らとは以後も長く深い交流が続きました。
ポリドール時代(1971〜1975年)
1971年、ポリドールのディレクター多賀英典に誘われて移籍し、初のアルバム『断絶』のレコーディングを始めました。1972年3月1日に井上陽水と改名し、シングル「人生が二度あれば」で再デビュー。編曲を担当した星勝は、以後しばらく陽水作品の大部分を編曲しました。同年5月に「傘がない」を収録した『断絶』、12月に2ndアルバム『センチメンタル』を発表し、大晦日には渋谷ジァン・ジァンなどで本格的なライブを初めて行いました。
1973年3月、東宝映画『放課後』の主題歌「夢の中へ」が初のヒット(オリコン17位)となり、7月に初のライブアルバム『陽水ライヴ もどり道』、9月に「心もよう」を発表しました。12月のアルバム『氷の世界』は、オリコン1位を35週続け、113週にわたりベスト10に留まるロングセラーとなり、1975年8月に日本初のLP100万枚突破を達成しました。1974年の『二色の独楽』も1位を獲得し、デヴィッド・T・ウォーカー、ジェシ・エド・デイヴィス、レイ・パーカー・Jr.、ハーヴェイ・メイソン、ジャック・ニッチェらスタジオ・ミュージシャンが参加したハードなアレンジが特徴です。「日本のフォークロックの帝王」と呼ばれました。この時期はテレビにほとんど出演せず、1974年はアルバムだけで150万枚を売り上げました。1974年1月に結婚し、1975年には吉田拓郎、泉谷しげる、小室等らとフォーライフ・レコードを発起し、後に再婚する石川セリと出会いました。
フォーライフ時代
1976年2月に離婚。フォーライフから発表した『招待状のないショー』(同年3月)は9週連続1位を獲得しました。1977年には石川セリのアルバムに「ダンスはうまく踊れない」ほか2曲を提供しています。同年9月に大麻所持容疑で逮捕され、懲役8か月、執行猶予2年の判決を受けましたが、1978年7月発表の『